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しきりにすゝめられたが、道平は縁側に出て、いつのまにか下していた着物の裾を又尻からげにかゝつていた。頑固といふほどではないが、その様子には円味のある手ごはさと云つた風なものが感じられた。
「あれですかね、やつぱり自分で歩かなくちやいけませんかね」
ちょうどこの大火のあった時から二三年後ごになるでしょう、「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の体を売ったのは。しかし体を売ったと云っても、何も昔風に一生奉公いっしょうぼうこうの約束をした訣わけではありません。ただ何年かたって死んだ後のち、死体の解剖かいぼうを許す代りに五百円の金を貰もらったのです。いや、五百円の金を貰ったのではない、二百円は死後に受けとることにし、差し当りは契約書けいやくしょと引き換えに三百円だけ貰ったのです。ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡るのかと言うと、何なんでも契約書の文面によれば、「遺族または本人の指定したるもの」に支払うことになっていました。実際またそうでもしなければ、残金二百円云々うんぬんは空文くうぶんに了おわるほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人ひとりもなかったのですから。
好い座敷には床の間、ちがい棚は設けてあるが、チャブ台もなければ、机もない。茶箪笥や茶道具なども備えつけていないのが多い。近来はどこの温泉旅館にも机、硯すずり、書翰箋しょかんせん、封筒、電報用紙のたぐいは備えつけてあるが、そんなものは一切ない。
が、一隊がふたゝび町中にさしかゝつて来ると、汗と埃でよごれ、ゆるんだ表情の彼等に見られるありありとした疲労は、待ちうけていた見物人達にたちまち同情と心配をひき起した。今や、この一隊は紙衣の神官でもなければ行列でもなく、見物人達の良人をつとであり、父親であり、主人であつた。草履の代りに下駄が、下駄の代りに草履がはき代へさせられ、手拭を出し、熱い番茶を持つて来、中には自宅の縁側に悠々と一休みして行く者さへあつた。
「はあて、神主さんになるのもえらいもんだのう」
「さうなんですよ。ですが、よく考へたもんだと思ひましたね、足もとから鳥が立つ、といふでせう、――あれとそつくりにね、かうひよいとカワラケがとび出すんですよ」
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
はじめの中は房一の傍で指南顔に見ていた徳次も、やゝ下手の流の中につゝ立つて、身動きもしない。ほつそりした身体つきの小谷は、いつのまにか対岸に渡つていて、これも深い黙想に似た形に稍首をかしげて凝然ぎようぜんとしている。獲物はちよつと途絶えたが、しばらくすると又掛りはじめた。
「こんなところで初対面のご挨拶をしようとは思ひがけなかつたですね。――いや、初対面といふわけでもないんですな」
河原町の部落がそれに沿つて長く伸びているあの川は、この附近では単に吉川と呼ばれているが、町の少し上手では二つの支流を合したものとなつているので、それにも各々ちがつた名がついていたが、こゝから更に下流になると、はるか下手の河口にある町の名をとつて吉賀川となるのである。
徳次は河船頭であつた。明け方早く、一帯に白い朝靄の立ちこめた川面のどこか一点にぽつんとした黒い点が現れ、しだいに大きく人の形であることが認められるやうになると、それがまるで宙に浮いたやうに思ひもよらぬ高さで突立つているのを見た人は、不審に感じながらぢつと眼をこらすだらう。間もなく、積荷で盛上つた黒い船体が見えて来ると、その上に足を踏ん張つて仁王立ちになり、太い棹をいくらか斜に構へ持つた徳次が、河原町の路上をふらついている時の、いくらか赤鼻の、きよろりとした顔とはまるで人がちがつて見えるほど、きつとした引きしまつた面持で、睨みつけるやうに前方に目を配つているのを認めるだらう。水に隠れている円つこい岩がある、さうかと思ふと、流れの加減で船がそつちに寄るといふよりは、先方からすつと近づいて来るかと見えるやうな、鼻先だけちよつぴり水面に出した、だが頑固な岩がある。こいつらを、徳次はあの長い棹で突張り退けるのだ。徳次はもうこんな岩の在りかもその性質もすつかりのみこんでいる。だが、水量が減つたり増えたりするにつれて、この岩どもは気心のしれない女よりもなほ厄介な代物になる。おまけに、広い川の中でも本流は時々気まゝに路を変へるのだ。そいつに乗つていないかぎりはいつまでたつても河口へ着きはしない。
ところが、何の気なしにいつものきよろんとした目つきでその方を眺めていた徳次の顔には、その時不意打を喰つたやうな表情が浮かんだ。彼は緊張して眺め、さつと顔を紅らめ、力りきんだやうになり、それから急に下こゞみになつて水洗ひの仕事にかゝつたが、明かに上の空だつた。彼は始終落ちつきなく対岸の路を眺めやつた。そしてやはり、紅らんだり力んだりした。